儒教の教え

これには伝統的イエ制度、儒教の教えが強く影響しているのでしょう。それは西洋流にいうならば、ラポール(相互関係)に近い関係といわれるかもしれませんが、精神分析的にはむしろ転移と逆転移(治療者自身が自分の個人的幼児体験などによって患者を歪んだ見方で見てしまうこと)と見なされるでしょう。しかし、このような背景なしには、分析が円滑に進むとは私には思えないのです。この点、療法は明言していないにしても、この家族的雰囲気は濃厚に見られ、かつそれを武器にしているように思われます。西洋人ならば、治療者と患者はまったく対等な個人対個人の契約関係です。その契約関係に家族的雰囲気が出るのは異様なことであり、当然、転移として解釈すべきこととなるのでしょう。また言葉と論理は、この独立した主体としての個人と個人の関係を分析するのに一番重要な武器です。しかし通常、日本の患者は治療者へ、父と母の二人が混交した軽い「転移」を治療者に向け、家族的雰囲気をかもしだすことを無意識に要求してくるものです。このような家族的な親しみがあればこそ、論理的切断としての解釈ができると同時に、解釈がその人と治療者の関係を切ることにならないのです。日本人には情緒的雰囲気がとくに重要なのです。このような家族的安心感を基にして、自分の感情を表現し、ストレスを見つけ、治療者と一緒になってその克服法を考えることが通常の心理療法なのです。

 

また、アメリカでは行動療法や認知行動療法が、最近急速に発展し、日本にも当然取り入れられています。そこではロール・プレイが大きな役割を果たしています。ロール・プレイとは、患者の適応上問題となった場面を人工的に設定し、役割演戯をするもので、ドラマのようにそのときの感情を味わいつつ、新しい適応の方法を学んでいきます。私はアメリカに滞在しているとき、この方法を見ましたが、アメリカ人にはとても適合していると思いました。

 

 

彼らはきわめて自然に演技に入っていき、治療者もまた臨機応変に演じていきます。ところが、これを日本にもってくるとなると、 ロール・プレイは患者にも治療者にもうまくいかないことが多い。現実に起こっている場面を再現するかのような、人工的設定でのロール・プレイは、当然、不自然なものと映ります。日本人の美意識では、不自然さはもっとも嫌われるようです。「わざとらしさ」は醜いと考えるのです。私はまた、八年以上も集団療法をやっていますが、いかに努力してもその集団は問題解決志向になりません。むしろ家族的親しさのある雰囲気を得ることが、主たる集団の動きとなることが多いのです。課題提起はこのような場では不自然であり、学校の授業のようになり、自由さを失うのです。